2010年4月1日木曜日

総選挙後のイラク情勢

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☆★総選挙後のイラク情勢
Iraq's Post-Elections
ライラ・アンワルのブログ 2009年3月28日付
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http://arabwomanblues.blogspot.com/2010/03/iraqs-post-elections.html

An Arab Woman Blues 
Layla Anwar
March 28, 2010

 なんでこんなダメ男についてブログするんだろう? まったく信用できないヤツ・・・、本だってカバーを見れば分かる。

 アラウィは、もう一人のダメ男チャラビと同じで、イギリスとアメリカの諜報機関に雇われた(または雇われている)犯罪者、それ以外の何ものでもない。

 それでもイラク人にとっては、シーア派至上主義政党によって息をつまらされ、抑圧され、暴君と独裁者とテロリストの支配を押しつけられてきた状況から、わずかに窓が開いて新鮮な空気が入ってくるようになるなら、一縷の望みを抱いてもいた。

 今回の選挙に示されたこと、それこそ私が州ごとの投票結果まで紹介した理由であり、これまでの不誠実でグロテスクなあらゆるプロパガンダに反論するうえで、幾つもの事実と明白な証拠を与えてくれた。2003年の占領をもたらしたプロパガンダ、いわゆる左翼やリベラルな進歩派、あるいは反戦を掲げる役立たず連中などが持ち込んだプロパガンダのこと。

 最初に挙げるべき明らかなウソの一つは、サダム・フセイン政権がスンニ派主体の政権でイラクのシーア派を抑圧していたというもの。これは最初のウソであったし、今もウソである。そして、次のようなウソが続く。曰く、スンニ派(アラブ人)が、宗派主義から無実の市民に争いを仕掛けた云々、そして彼らは口をつぐむ。

 ウソはさらに進化した・・・。アルカイダがイラクに引き入れられたのはアメリカとイランの仕業であったし、アルカイダが殺したのはシーア派だけでなく、多くのスンニ派を虐殺し、イラク・レジスタンスのメンバーも虐殺された。

 2つめのウソは、シーア派が1990年代に蜂起したあと、イラクで集団墓地に埋められたというもの。1990年代にシーア派の蜂起(インティファーダ)はなかった。事件の真相は、1万人のイラン人がイラク南部に侵入し、蜂起をでっちあげようとしたというもの。名前を挙げておくが、ここで覚えておく必要のあるのはチャラビの名前と、そしてバグダッドでは、アラウィが爆弾を仕掛け、無実の市民を殺すという別の事件を起こしたこと。

 90年代に起こったこの2つの事件は、フセイン政権転覆を企んだもので、空からは、イギリスとアメリカの野獣が定期的に空爆を行っていた。この2つの企みの首謀者、チャラビとアラウィは、今日のイラクで政治の表舞台に立っている。そして2人とも、イラクの大地に足場を築くことになったのは、イランの協力を得た野蛮なアメリカと、グレイトとはいえそうもないブリテン(イギリス)のおかげ。

 それで何故、私はこんなことを書くの?

 選挙の結果が、不完全ながらも、皆さんが認めたがらない真実を明らかにしたから。

 スンニ派の大多数はシーア派の人物(アラウィ)に投票したと言うが、このことが示しているのは、イラクはアメリカによる占領とイランの干渉を目の当たりにしながら、それより優先して宗派にこだわるような宗派主義の社会ではないということ。

 いわゆるクルド地域では、キルクーク以外は、クルド人だけが立候補を認められた。つまりアメリカが持ち込んだ連邦制が、まだ機能しているということ。
 
 ひじょうに明確になったことは、南部のシーア派の多い州はまだイランの支配が強いということ。これらの州では、投票は宗派のラインにもとづいて行われ、世俗主義(政教分離主義)者はシーア派教徒であっても受け入れられなかった。連邦制という政治的テーマが、イラクの3分割案としてここでも機能している。

 前にも書いたし、これからも繰り返すだろうけど、イランとその手先のシーア派は、次のような方針を採用している。

 アメリカ/イスラエル/イランの計画に抵抗するイラク人には民族浄化作戦でのぞむ。ここで抵抗というのは、武装レジスタンスに限定しない占領に抵抗するレジスタンスのグループまたは個人のすべてを指し、彼らはあらゆる政府機関に浸透している。

 イランおよびイラク国内にいるイランの代理人は、シーア派政党とその民兵が同時に幾つもの窓口を開いていて、例え一つのグループが失敗しても、常に替わりのグループが採用される。こうしたグループは外見が異なり、違う利益を追求しているように見えても、とどのつまりは法治国家連合とINAの間におさまる。マリキのダーワ党にしろINAにしろ、どちらもイランの僕(しもべ)である。

 アラウィの世俗主義会派のなかにも、イランに仕える小さなグループがある。もっと言えば、サレハ・アル・ムトラクを追放したのは、イランだけでなくアメリカの仕業というのが私の見方。別の言い方をするなら、チャラビとアラウィがムトラク追放を望んでいた。

 最終開票結果が発表されて2日後、スンニ派住民殺しがまた始まった。すなわちディヤラとバグダッドで、マリキはテロの発生を警告していた。さらに、INAブロックで勝利者となったサドル派は26日、ハキムと一緒にイラン詣でに馳せ参じ、タラバニとアブデル・メフディも命令を受けとるために出仕した。

 こうしたなかで、アラウィに残された余地はひじょうに小さい。彼の会派に属するスンニ派の候補者が、逮捕されたり殺されたりしているだけでなく、マリキの新たな宣戦布告が彼を連立工作に向かわせたが、・・・誰との連立? 残るのはINAのサドル派か、はたまたクルドか。もしアラウィがシーア派政党と連立を組めば、彼が支持者の半数を失うことは確かである。選挙結果の公表後2日にして、既にスンニ派に対する新たな魔女狩りが始まった。

 また今日になって、さらなる事実が明らかになって、サダムが伏せていた集団墓地64ヶ所が掘り返されたという。イラクの人権を訴えて得票ゼロに近かった浅ましい女性が、ついにはマリキのために動いて真実を語ったというのだが、未遂に終わった。バグダッドとディヤラで掘り返された集団墓地というのは、以前にも指摘したことがあるが、スンニ派住民の墓地であった。イラクにおけるスンニ派アラブ人は、2003年までは人口の45%を占めていたのに、今は15%にまで減ってしまった。その理由がここにある。

 アメリカだけを非難したがる人々に、もう一つの真実を教えよう。宗派主義の争いを発動したのはアメリカだが、アメリカだけではそれは実行できなかった。そこで必要とされたのは、イランに忠実なシーア派だった(訳注/シーア派のすべてがイランに忠実という意味ではない)。イランが帝国主義大国に反対していると信じる余り、その愚かさゆえに隠されてきた真実の一端がこれである。

 結論として、ことは2003年以降のできごとである。イラク分割計画はまだ続いており、アラブ諸国がアラウィを歓迎する一方で、イランの公然たる干渉の野望が強くなっている。そしてアメリカは「解放」のためのイラク駐留を延長する理由を見つけるだろう。そこには敗者は1人しかいない--1人だけであり、犠牲になったのも1人だけ、代償を支払い汚名を着せられるのも1人、それはイラクである。

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